「気づく人」と「気づかない人」
世の中には、「気づく人」と「気づかない人」の2種類の人間がいると思う。
発言や行動が周囲の人の顰蹙を買っているのに「気づかない人」。周りの人を気にすることなく自分のやりたいようにやっている本人は至って幸せである。
自分は完璧な人間である、と、ある意味「気づいていない人」。言うまでもなく幸せである。完璧な自分、周りから羨ましがられていて、周りの人に施しを与えている気分。
一方で、相手の反応や些細な表情の変化からその心情に「気づく人」は、気づいてしまったことに一喜一憂する。常に気になってしまうゆえ、生きづらい。
世間の理想とされているぐう聖に自分がなれていないことに「気づく人」は、自分自身の内面を磨き続けないといけない。
自分に足りない部分を直したとしても、また別の足りない部分が出現し、いつまで経っても満足することがない。
似たような話で、自分の置かれた環境に「気づく人」と「気づかない人」の2種類の人間がいる。端的に言うと、井の中の蛙大海を知らず、である。
「気づかない人」、極端な例を挙げると、自然に囲まれテレビもスマホもないような場所で生まれ育った人が、家族に囲まれ日々の小さな幸せに満足して生涯を遂げるとする。
一方の「気づく人」、たとえば都会に生まれ育ち、世の中の地位やステータスのピラミッド構造を知ってしまった人。
上を見上げれば究極の目標は程遠いところにあって、いつまで経っても満足することができない。
勉強の出来不出来による競争を終えたと思えば、就活戦争があり、そこからの社会人生活では長い長い昇進昇級レースが待っている。満足する頃には人生が終わりに差しかかっている。
いずれにせよ、気づかない方が、鈍感でいることの方が、幸せなように思われる。
「気づく人」はなぜ、限られた人生の大半を、不満足感に包まれながら生きないといけないのか。
圧倒的に損である。
「気づく人」はなぜ、自分自身の内面を高め続け、また、自分の地位を高め続けないといけないのか。
自己啓発本、スキルアップ本は世の中に無数に存在し、読むとなんだか満足した気分になる。さて、そもそもなぜそのような本を読まないといけないのだろうか。
周りの人にも何人か聞いてみたが、未だに満足する答えには至っていない。
今のところ一番納得したのは、「分からないけど、それでもおれは、苦労した先の幸せを手に入れたい」という答えである。
そういうものなのかもしれない。